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横浜地方裁判所 昭和51年(行ウ)11号 判決 1979年2月28日

原告 金井良蔵

被告 鶴見税務署長

代理人 成田信子 高梨鉄男 木暮栄一 白井文彦 細矢良次 ほか三名

主文

本件訴をいずれも却下する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事  実<省略>

理由

一  請求原因(一)の事実は当事者間に争いがない。

二  そこで、本件決定処分及び本件更正処分の取消を求める本件訴が出訴期間内に提起された適法な訴といえるかについて判断する。

(一)  東京国税不服審判所長が本件裁決書謄本を書留郵便にて原告に発送するに際し、原告の住所を馬場町と表示したこと、そして右封書は昭和五一年三月一二日馬場町に送達され、原告の姉規聿子がこれを受領したことは、当事者間に争いがなく、本件訴が昭和五一年六月一二日に提起されたことは、記録上明らかである。

(二)  ところで、行政事件訴訟法一四条四項を適用して取消訴訟の出訴期間を計算する場合には、裁決があつたことを知つた日又は裁決があつた日を初日とし、これを期間に算入して計算すべきものと解するのが相当である。

(三)  そこで、本件裁決書謄本が送達された馬場町が、原告に対する適式な送達場所といえるかについて判断する。

1  郵便による送達に付された本件裁決書謄本は、その送達を受けるべき者である原告の住所又は居所(事務所及び事業所を含む。)に送達されるべきものである(国税通則法一二条一項)。

2  <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(1) 原告は、昭和二八年ころから両親と共に馬場町に住むようになり、父安雄を世帯主とする世帯の一員として馬場町に居住していたが、昭和三九年ころからは、父安雄が長年携わつてきた造園業の仕事を手伝い始め、父と一緒に造園業に従事するようになり、昭和四五、六年ころからは、馬場町において金井造園の屋号で行なつていた父の造園業を実質的に引き継ぐに至つた。そして、約二六〇坪ある馬場町の土地のうち、営業用の軽トラツクや乗用車の車庫敷地及び家屋敷地を除く約二三〇坪には営業用の植木が植えられ、その手入れなど軽易な仕事を父が手伝うこともあつて(なお、造園の道具類も同所に収納されていた。)、原告は、そのころから所得税の確定申告にあたり、父安雄を原告の事業専従者として申告し、また、従前父の扶養家族になつていた母キクについても原告の扶養家族として申告するようになつた。

(2) 原告は、右のとおり、父安雄の造園業を実質的に引き継ぎ、馬場町を本拠として造園業を営むようになつたが、いまだ同業者組合である鶴見造園業組合には加入せず、組合との関係では、会計係や副会長などの要職を歴任した父安雄が現在も組合の顧問という地位にあり、また、馬場町の父安雄名義の加入電話については、電話帳の記載上依然として職業名が植木と付記されているなど、原告が行なう造園業の対外的信用の面では、父安雄の名声、信用が生かされている。

(3) 馬場町において造園業を営むようになつた原告は、昭和四九年一〇月に結婚するまで、同所において両親及び昭和三九年から一緒に暮らすようになつた姉規聿子と共に生活していたが、原告が新築したマンシヨン(東寺尾ハイツ)の管理と新居を構えるため昭和四九年一〇月二六日東寺尾に転居し、同所で生活するようになつた(なお、その旨の転居届は同月三一日にされた。)。その後、原告は、昭和五一年八月に肩書住所地の松見町に妻子と共に転居した。なお、原告は、右転居に際しては所定の転居届はせず、その後昭和五二年三月に住民票上の住所だけを元居住していた馬場町に移した。

(4) 原告は、住所を馬場町から東寺尾、さらには松見町にと移転したが、原告の行なう造園業との関係で、東寺尾に居住していたころには、同所に仕事関係の電話が夜間かかつたり、あるいは仕事の道具を積んだ軽トラツクを東寺尾の方に駐車させていたけれども、東寺尾は通常の居住用マンシヨンであつて、事業のための設備等はなく、また、東寺尾に架設された原告名義の加入電話は、松見町に移設された現在も電話帳に職業名が付記されていない状態にある。他方、原告の行なう造園業との関係で馬場町をみれば原告の転居にかかわりなく、従前のとおり道具の一部を収納し、車庫には集金等に利用する乗用車を駐車させ、また、約二三〇坪の営業用の植木畑があるほか、仕事関係の電話が馬場町にかかることも多く、さらに、原告自身も、仕事の都合上顧客方に連日出掛けるような場合を除いては、毎日のように造園業の仕事のため馬場町に出向いている状態にある。

以上の事実が認められ、右認定を左右するに足りる的確な証拠はない。

なお、原告が、馬場町を住所として昭和四九年一月二四日国税不服審判所長に対し本件審査請求書を提出してから昭和五一年三月一二日に本件裁決書謄本が馬場町に送達されるまでの間国税不服審判所長に対し住所の変更を申し出ず、また、同年六月一二日に提起された本訴の訴状及び委任状に記載された原告の住所がいずれも馬場町であり、さらに、原告が納付した昭和四八年分贈与税の領収済通知書記載の原告住所も馬場町と表示されていることは、当事者間に争いがないけれども、前掲各証拠によれば、訴状、委任状の記載は原告代理人において原告の転居を知らずに元の住所を記載したものであり、また、領収済通知書の記載は原告において昭和四八年当時の住所を記載したものであると認めることができ、右争いのない事実は、原告の昭和五一年三月当時の住所が東寺尾にあつたとする前記認定の妨げとなるものではない。

3  右2に認定した事実によれば、本件裁決書謄本が送達された馬場町は、送達当時原告の住所であつたとは認められないが、原告の転居にかかわらず、原告の行なう造園業の事業所であつたと認めることができる。

(四)  次に、原告が本件裁決があつたことを知つた日について判断する。

1  前記認定のとおり、原告は、昭和四九年一〇月まで馬場町に居住し、転居後も馬場町を原告の事業所として造園業を営んできたものであり、<証拠略>によれば、原告が馬場町に居住して造園業を行なつていた間、原告の姉規聿子は、馬場町に届く原告宛の郵便物を受領したり、また、原告の造園業関係の電話の取り次ぎを行なうなどしていたこと、原告は、東寺尾に転居後も特に転居先に郵便物の転送を依頼することなく、むしろ、仕事のため馬場町に毎日のようにしばしば出向くので、郵便物が馬場町に届けば支障はないと考え、姉規聿子が郵便物を受領してくれることに格別異議はなく、馬場町の原告宛に届いた郵便物を規聿子から受領していたし、また、規聿子に仕事関係の電話の取り次ぎもしてもらつていたこと、さらに、現在松見町に居住している原告自身、原告に宛てた郵便物が馬場町に届けば原告に届いたものとしてよいと考えていること、以上の事実を認めることができる。する権限を与えていたものと認めるべきである。

右事実によれば、原告は、姉規聿子に対し、本件裁決書謄本が馬場町に送達された昭和五一年三月当時、原告宛の郵便物を受領

2  以上のとおり、原告宛の郵便物を受領する権限を有する規聿子が昭和五一年三月一二日に本件裁決書謄本を受領し、社会通念上本件裁決があつたことを知り得べき状態に置かれた以上、原告が本件裁決のあつたことを知つた場合と同視するのが相当であり、従つて、原告は、同日本件裁決があつたことを知つたものというべきである。

(五)  従つて、本件訴の出訴期間の計算にあたつては、昭和五一年三月一二日を初日として算入すべきであり、三か月の出訴期間経過後に提起された本件訴は、いずれも不適法な訴として却下を免れない。

三  さらに、本件更正処分取消請求についてみれば、原更正処分は、原決定処分に基づく贈与税額及び無申告加算税額を減少させる減額処分であり、原決定処分の一部を取消す効力のみを有する原告に利益な処分であるから、原告が本件更正処分の取消を求める法律上の利益を認めることができない。

従つて、原告の本件更正処分取消請求は訴の利益を欠く不適法な訴というべきである。

四  よつて、原告の本件訴はいずれも不適法としてこれを却下することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 宍戸清七 三宅純一 桐ヶ谷敬三)

物件目録 <略>

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